2012年3月16日金曜日

関東甲信越民医連 薬学生セミナー

3月10日11日の2日間、民医連関東甲信越地協主催の企画「薬学生セミナー」が千葉県幕張で行われました。企画のテーマは「震災支援の中から見えてきた役割。これからの薬剤師について考えよう」というものです。震災後の被災地での薬剤師の活動報告、医師による原爆問題についての講義、服薬指導のロールプレイング、交流会など盛りだくさんの内容でした。


小グループに分かれての服薬指導のロールプレイでは、初めて服薬指導を体験する低学年から、OSCEを終えたばかりの4年生、長期実務実習で医療現場を体験してきた5年生など、それぞれの学年の知識・経験の中で服薬指導を行えるよう薬剤師が援助しながら、実践的な服薬指導を体験しました。

宮城県の保険薬局に勤務する薬剤師の活動報告では、被災直後から未だに震災の傷跡の残る現在に至るまでの現地での薬剤活動が紹介されました。民医連は「一番困難な人に寄り添う医療」を実践しようと日々医療活動に取り組んでいますが、震災翌日には全国各地の民医連事業所から多くの職員が支援に駆けつけました。講演では薬剤師が保険薬局で地域の患者さんに必要な薬剤を提供したり、避難所を訪問したチームの中で被災者の方々の治療に必要な薬剤の情報を他職種に情報を提供したりと、専門性を活かしながら支援活動を行った様子が報告されました。最後には薬学生に向けて、今体験できるチャンスを生かし、同じセミナーで知り合った仲間を将来の財産にしようと呼びかけられました。


その後の感想交流では、低学年の学生からも被災地でできる薬剤活動への提案が出され、それぞれが講演を聴いて抱いた想いを交流しました。
夜は遅くまで他大学に通う学生が交流し、2日間、良く学び、良く交流する企画となりました。 震災から一年が経過しますが、日本は自然災害の多い国であり、いつ、どこででも大災害が起きる可能性は否定できません。これから社会に出ていく薬剤師の卵として、多くの学生に「これからの薬剤師に何が求められるのか」を考えていって欲しいと思います。

2012年3月15日木曜日

3・11 あれから一年・・・

忘れることのできない3月11日から一年。東日本大震災・福島第一原発事故で家族や友人を失った被災者の無念の思いは癒えず、厳しい避難生活が続いています。放射能汚染という目に見えない命と健康の危機、原発事故の危険は今なお存在しています。
 先日聞いた、「沈黙は賛成を意味する」この言葉を知った私は、「原発なくして!! 復興支援!! みんなの願い・・・3.11アルプスパレード」の集会があることを知って、3歳の娘と参加しました。特に小さな子どもたちには大きな障害をもたらすだろう放射能。私たちの日常生活の食糧などにも影響が出ています。集合場所に行くと、娘と同じような年頃の子がプラカードを持って参加していました。やはり、皆同じ思いをしていると感じました。 あの日から一年。復興までの道のりは厳しいものです。チェルノブイリ、福島と、2度にわたり地域社会を崩壊させる大事故を起こした原発は、やはり不完全な技術と言わざるを得ません。私はこの原発事故の教訓から再びこのような悲惨で非人間的な事故被害を起こさないためには、老朽化したものや危険なものから止めていき、最終的にはなくすべきだと強く思いました。

2012年3月5日月曜日

第二次長期計画討論合宿

ワイエムピーでは、今後5年間の薬局運営の方針の元となる「第二次長期計画」を作成しているところです。



 長期計画というのは、前回の計画で決められた課題が果たせたかの評価を行い、今後の薬局運営への方針を明らかにするもので、ワイエムピーに所属する全職員が関わり、事業所や職種、役職など様々な分野で討論が行われ作成されていきます。全職員が関わって会社の方針を作るというのは、民医連に加盟している薬局ならではの光景です。


 3月3.4日の両日、各あすなろ薬局から薬局長、薬剤師・事務主任などが参加し、長期計画の討論を行う合宿を甲府市内で行いました。



 一日目には、これまでの討論で形作られてきた長期計画の説明と、今全日本民医連が提案している「薬剤師政策(案)」の紹介が行われました。 全日本民医連の薬剤師政策(案)では、民医連に加盟する病院・薬局で働く薬剤師が取り組んでいる薬剤活動の現状と今後の課題が示され、課題を果たす為に必要な方向性や目標が提案されています。この政策(案)も、全国の事業所で討議された意見が集約され、作られていくものです。

 二日目には参加者がそれぞれの自分史や「あすなろ薬局をこうしたい」というテーマで発表し、意見交換を行いました。退職を控えた薬局長や社長がこれまで民医連で働いてきた想いを次世代に伝え、中堅薬剤師が今後薬局達が薬局を背負っていく自覚を持つ中で視野が広がり成長へとつながっている話しなど、参加者それぞれの想いが交流される場となりました。

3・1ビキニデー日本原水協全国集会

  「2012年3・1ビキニデー日本原水協全国集会」が2月29日、3月1日の両日、静岡県焼津市で行われました。ビキニ事件というのは1954年3月1日、今から57年前に起こった事件です。1954年3月~5月、米国は南太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁などで6回にわたり水爆実験が行われました。1回目の3月1日の爆発で、マグロ船「第五福竜丸」が「死の灰」(放射性降下物)をあび、全乗組員23人が被曝。半年後、無線長の久保山愛吉さんが急性放射能症で死去。この事件を機に日本国民は原水爆禁止へと大きな歴史の一歩を踏出しました。また原水爆禁止運動のうねりが世界に広がっていきました。




 今回ビキニデー集会に参加し、ビキニ被爆者大石又七さんの体験の話を聞く事、知ることが出来ました。ビキニ事件は敗戦から9年後に起こったこと。その時、国の対応が広島・長崎で起きた出来事を隠していたこと。原爆とはどういうものか情報もなかった為、爆発時に発生する白粉「死の灰」を知らずに浴び、被爆していたということ。現在の情報社会では考えられないことが起こっていたことがわかりました。「ビキニ事件、3.11東日本大震災の福島原発が起こった時の政府の対応は57年たった今も変わらない。責任者が責任を取らないから、次に引継ぐ者も責任を取らない」という一言に重みを感じました。


 今回、他県から参加している人達と交流がありました。雪で電車が走らなかったため、埼玉県から自家用車で参加した女性「高校の時に、ビキニデーに参加したが20歳になり社会人として社会に出る前にもう一度、その時感じた思いと一緒かを確かめたかった。やはり参加してよかった」との発言には胸を打たれました。今回一番に学んだことは「沈黙は賛成を意味する」。何事も間違っている、それはおかしいと思ったときは行動を起こさなくてはいけないのだと思いました。(事務K・T)